2013年2月6日水曜日

摩文仁の丘の慰霊塔群


平和祈念公園は4つのゾーンに区分され、その中のひとつが御霊の鎮魂と祈りの「霊域ゾーン」。この階段を上がったところから霊域ゾーンで本園東南部一帯の丘陵地で沖縄戦で最後の激戦地となった場所であり、国立戦没者墓苑や各県の慰霊塔が建立されている。今回は霊域内の全ての慰霊塔を巡拝したいと思います。

栃木の塔(栃木県)

ひとつだけ階段の下にある慰霊塔があるのでここからお参りします。太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した栃木県出身者31,495名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は676名。塔は沖縄王家の墓、玉陵 (沖縄の伝統的な墓型として知られる破風墓の形)を模している。碑石は栃木県足尾産の石である。

 階段を上がってまず最初に現れたのが、みちのくの塔(青森県)

第二次世界大戦中、沖縄、日本近海、中国、南方諸地域で戦没した青森県出身者19,847名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は544名。碑文には次の歌が刻まれている。

「往きしままと なりはてしかど わが胸に かえりきまさぬ ひと日とてなし」

戦場となった六地区遥拝のため六個の青森県産の石でできた副碑が塔を取り囲んでいる。


岡山の塔(岡山県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した岡山県出身者33,799名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,578名。塔は岡山県産の銘石北木島の御影石製。合掌式の上屋が塔を覆っている。これは激しい風雨から「みたま」を護り。安らかな眠りを誘うという形を表している。



房総の塔(千葉県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した千葉県出身者35,693名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,608名。塔は合掌の形をとり、平和と子孫繁栄を祈る形を象徴している。塔の中心の球は、県花「菜の花」と千葉県の波の形としてあしらっている。



愛媛の塔(愛媛県)

沖縄戦で戦没した愛媛県出身者2,076名を祀る。塔石は愛媛県産の青石。塔には県民が戦って犠牲となった地域42カ所の霊石が納められている。


逓魂(ていこん)の塔

沖縄戦で犠牲となった逓信関係職員508名を祀る。塔は園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門(琉球王府時代、国王が城外に出かけるとき安泰を祈願した拝所。沖縄の石造建築の代表的なひとつ)を模したもので、沖縄本島中部勝連半島の銘石トラバーチンで出来ている。

塔名と戦没者刻名版はイタリア産大理石。

福井の塔(福井県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域、その他で戦没した福井県出身者24,507名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,183名。塔には冬に多い福井地方の伝統的な「合掌造り」になっている。

愛國知祖之塔(愛知県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域、その他で戦没した愛知県出身者51,166名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は2,970名。沖縄戦では愛知県出身者は第六十二師団に所属し浦添一帯で米軍と激闘を重ねた。
塔ははじめ浦添城跡内に建立されたが1994年に現在地に移された。塔の丸型形状は平和を象徴するとともに愛知県と沖縄県が共に面する太平洋をイメージしている。

愛國知祖之塔、参拝者の為に休憩所が設けられており南方の海が彼方まで見渡せます。

観光客の人が想像する沖縄の海とはかけ離れて、ここ南部の海は哀しい色です。

千秋の塔(秋田県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した秋田県出身者12,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は432名。

この塔は三代目の塔である。初代は糸満市米須、魂魄の塔横に建立された鉄筋コンクリート製の「千秋の塔」。二代目は摩文仁が丘の「黎明の塔」拝所前に移転し、さらに現在地に移転。二代目の台座、碑石に加えて新たに御影石製の後壁を配した。

新潟の塔(新潟県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した新潟県出身者41,960名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,117名。塔は米どころ新潟を象徴する「米の粒」を象っている。

近江の塔(滋賀県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した滋賀県出身者1,673名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,202名。滋賀県出身の将校は第六十二師団に所属して戦い、多くの犠牲者を出した。塔は基壇を高くして重厚な味わいを持たせ、前面左右の燈篭とバランスをとっている。塔の背面には「沖縄方面霊名碑」が置かれている。

おじぎくの塔(兵庫県)

沖縄戦で戦没した兵庫県出身者3,073名を祀る「のじぎく」は兵庫県の県花。基壇中央の球状の「みたま石」は戦死者を、それをはさむ「合掌石」は遺族と県民の暖かい手を象徴する。後ろの壁は「みたま石」を自然の自然の厳しさから永遠に護り続けることを意味する。

静岡の塔(静岡県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した静岡県出身者40,510名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,708名。塔には霊峰「富士山」を象っている。碑には「魂は 富士につながるいついつまでも」とある。

群馬の塔(群馬県)

第二次世界大戦中、沖縄、中部太平洋、中国、南方諸地域で戦没した群馬県出身者47,243名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は850名。中央二本の主柱石(三波石)は群馬県に向かい合掌する形をとっている。

神奈川の塔(神奈川県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した群馬県出身者40680名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,678名。塔は遺骨を納める箱をイメージしたもの。土台は「三方」をイメージして作られ、西丹沢の石英縁石と真鶴町の本小松石が使われている。

茨城の塔(茨城県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した茨城県出身者38,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は682名。塔は茨城県産の花崗岩が使われている。円球は「平和」を象徴している。

立山の塔(富山県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した富山県出身者14,876名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は877名。塔は立山を象る。立山は富山県の東南にそびえる北アルプス北西端の雄大な連邦である。また信仰の山としても知られている。

国立沖縄戦没者墓苑
(1979建立、管理 厚生労働省)

沖縄戦での戦没者180,000余名の遺骨を納め追悼する国立の墓苑である。沖縄戦での遺骨収集は戦後いち早く各地の住民の手によって始まった。当初、遺骨は各地に建てられた納骨堂や慰霊塔に納められたが、1957年日本政府から当時の琉球政府への委託に寄って「戦没者中央納骨所」(那覇市識名にあった)が建てられると、そこに納められるようになった。しかし収骨数が増え、同納骨所が手狭になったため1979年にこの墓苑が創建された。そして中央納骨所に納められていた遺骨の全てがここに転骨された。また現在も遺骨収集などで収骨される遺骨は全てこの墓苑に納められている。ここがまさに、この霊域の中心地だと思います。

この中に戦没者180,000余名のご遺骨がある。参拝者は平日でも一日中絶えずに訪れます。

私は献花してからこの圧倒的な前で膝をつき線香に火を着けました。この時はまわりに誰も居なくてとても静かでした。天気も穏やかで空気も清々しいです。

手を合わせて、目を閉じると頭の中は真っ白になります。無理に言葉を見つけようとしても「ありがとう、ごめんなさい、おつかれさま」どれも適切ではないように思えました。

ただ、心から「どうか安らかに」と思う気持ちだけを伝えました。

岐阜の塔(岐阜県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した岐阜県出身者26,853名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,015名。

三重の塔(三重県)

塔は三重県にある「伊勢神宮」に範をとり、碑と鳥居、石橋、山水等で構成されている。

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した三重県出身者5,300名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は2,713名。

岩手の塔(岩手県)

太平洋戦争中、沖縄、アリューシャン列島、南方諸地域で戦没した岩手県出身者34,860名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は653名。塔石は岩手県下を流れる下閉伊川から掘り出した自立石である。


第六十二師団 慰霊碑

第六十二師団(石部隊)の師団長、藤岡武雄中将以下、同師団戦没将校を祀る。第六十二師団は1944年7月第三十二師団に編入され沖縄戦では主に本島中部の嘉数高地、中城村北上原などで米軍と激闘を繰り返し5月末には指揮官精鋭部隊のほとんどを失った。藤岡師団長は6月22日摩文仁が丘で自決した。

福岡の慰霊の塔(福岡県)

沖縄戦で戦没した福岡県出身社4,015名を祀る。

なにわの塔(大阪府)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した大阪府出身者35,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は2,430名。塔石は大阪府産の黒御影石である。

徳島の塔(徳島県)

沖縄戦で戦没した徳島県出身社1,054名を祀る。塔は徳島県名西郡神山町産出の青石。県下各市町村名の入った飾り石が塔の周囲を囲んでいる。

鎮魂 長崎の碑(長崎県)

第二次世界大戦中、中国大陸、沖縄、南方諸地域で戦没した長崎県出身者35,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,594名。碑石は長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現西海市)雷の浦の蛇紋石である。


はがくれの塔(佐賀県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した佐賀県出身者28,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は914名。塔名の「はがくれ」は江戸時代、佐賀鍋島藩の武士の修養書「葉隠」にちなんだもの。



防長英霊の塔(山口県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した山口県出身者24,447名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,043名。「防長」とは山口県の旧国名「周防」「長門」による。塔は日本古来の神社形式に想を得て、千木、勝男木と校倉造りのイメージで聖なる場所を表している。

信濃の塔(長野県)

第二次世界大戦中、中部南太平洋地域、沖縄、南方諸地域、中国、朝鮮、ソ連、北太平洋諸地域で戦没した長野県出身者55,405名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,294名。碑石は長野県産の名石。

ふくしまの塔(福島県)

第二次世界大戦中、太平洋地域、沖縄、中国で戦没した福島県出身者66,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は942名。碑石は黒御影石で福島の名山、会津磐梯山を象っている。台座は八角形をしており、それぞれ異郷の八方面の戦場を偲ぶ遥拝所の役目をしている。碑文には次の歌が刻まれる。

「むせび哭く み霊の声が この丘に かすかに響く 遠き海鳴り」

沖縄放送局戦没職員 慰霊碑

 日本放送協会は昭和17年(1942年)1月、首里氏観音堂に放送局を設置し、同年3月より放送を開始したが、昭和20年、戦火のためすべての施設は崩壊し、職員30余人の内8名が戦死した。戦没職員の冥福を祈りこの地に慰霊碑を建立した。  終戦50周年を記念し、平成7年(1995年)2月、全面改修した。

火乃国乃塔(熊本県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した熊本県出身者1,732名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,476名。塔は熊本県の有田焼の陶磁器で作られている。塔の上の球体の台座には熊本県に多い植物、いちょうの葉が描かれている。

黒百合の塔(石川県)

沖縄守備軍の部隊の一つ第六十二師団(石部隊)長、藤岡武雄中将以下、沖縄戦で戦没した石川県出身者978名を祀る。塔石はイタリア産の大理石。「黒百合」は石川県の国立公園白山に自生する高山植物である。

義烈

沖縄戦のさなか「義号作戦」に参加して戦没した義烈空挺隊員を祀る。「義号作戦」とは1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄・読谷~北谷に至る西海岸から上陸し、付近の飛行場を占領。3日にはそれらの使用を開始した。この飛行場に対し空挺部隊を乗せた爆撃機が強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に攻撃を行うという作戦であった。



空華の塔

沖縄戦ならびに太平洋航空戦での戦没者、兵士と運命を共にした航空機材を祀る。沖縄戦での航空作戦には海軍機八千余機が使われたという。彼我の損害も類例のないものであった。この塔は戦後、生き残りの航空関係者により建立された。

宮城の塔(宮城県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した宮城県出身者45,500名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は732名。碑石は宮城県伊具郡丸森町産の花崗岩である。

ブーゲンビル島戦没勇士之碑

大平洋戦争時、ブーゲンビル島を中心とするソロモン群島地域で戦没した沖縄県出身将兵1,745名を祀る。ブーゲンビル島はガダルカナル島、ラバウル島などとともに日米間で激しい航空戦が行われたことで知られる。この塔は沖縄特有の亀甲墓を模している。

埼玉の塔(埼玉県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した熊本県出身者28,031名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,040名。台座に立つ7本の鉄像は「たとえ生命が断たれても平和希求の至情は不断の生命を宿す草のようにたえず生き続ける」姿を表したもの。バックの巨大な白色スクリーンは死者たちのそれぞれが愛する者への言葉にならなかった遺書を表している。

樺太の碑

北海道旭川第二十四師団歩兵第八十九連隊ほか部隊の戦没樺太出身者を祀る。
安らかに(鹿児島県)

沖縄守備軍の牛島満司令官以下、沖縄戦で戦没した鹿児島県出身者2,582名を祀る(富山丸沈没による戦没者も含まれている)(黎明の塔から一番近いのもそういうことだったのか。)主碑の「安らかに」は戦没者の鎮魂を祈る意。

今回この摩文仁の丘の慰霊塔群を一つずつお参りしました。(約2時間)道府県が建てた慰霊塔が32基ありました。塔のデザインモチーフ、立派な石や碑文には、それぞれのお国柄をよくアピール出来ていると思いました。郷土のために尽くした方々の魂が靖まるようにと各道府県が創建したのでしょう。

戦場となった沖縄にはいまだ数千体もの遺骨が収集されていません。不発弾の処理も完了するまでにあと50年もかかるといわれています。

沖縄平和祈念資料館の「展示の結びのことば」は次のように述べています。
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「沖縄戦の実相にふれるたび戦争というものは

これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない と思うのです。

この なまなましい体験の前ではいかなる人でも

戦争を肯定し美化することはできないはずです。

戦争をおこすのは たしかに 人間です。

しかし それ以上に

戦争を許さない努力のできるのも私たち 人間 ではないでしょうか。

戦後このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み

平和な島を建設せねばと 思いつづけてきました。

これが

あまりにも大きすぎた代償を払って得た ゆずることのできない

私たちの信条なのです」

------------------------------------------以上-----------------------------------------


私たちにできる真の慰霊とはなにか?

心の底から沸き上がる戦没者の御霊を安らかにと鎮めたいという気持ちだと思います。そして、ありきたりの表現ですが今の日本の平和な時代の礎になった方々に哀悼と感謝の意を表すことだろうと思います。

そして世界平和を祈り、考える

まずは身近なところから、職場、友達、家族。この小さな世界の中でお互いを尊重しあい、助け合って生きていくことが世界平和に繋がると思います。とは言っても人間関係ほど難しいものはありません。辛いときは、ひめゆり隊のことを思い出してください。青春、勉学、家族、すべてを失い、寝る間もまともな食糧もなく兵隊のために身をけずり信じられない激務を強いられ解散後、壕を追い出され鉄の暴風のなか歩き亡くなっていきました。自分の苦労や悩みがいかに小さい事が分かります。自分よりも相手の平和を考えられるようになりたいですね。

ブログ内の慰霊塔に関する参考資料:大田昌秀氏 著 沖縄戦の教訓と慰霊「慰霊の塔」