2013年2月9日土曜日

黎明の塔から健児の塔周辺

摩文仁の丘の慰霊塔群の最後(端)の「安らかに」(鹿児島の慰霊塔)をさらに先に歩き進むと、きれいな舗装道が出てきます。この先に見えるが黎明の塔です。

右手を見ると平和祈念堂が見えます。あそこから結構歩いたことになります。

左手は太平洋が一望です。この一帯の海岸は沖縄戦跡国定公園になっています。


黎明の塔の少し手前には勇魂の碑

魂の碑

戦没した第三十二軍司令部の将校、軍属約600名を祀る。



黎明の塔

南西諸島守備軍(
第三十二軍)司令官、牛島満中将(のち大将)と同参謀長、長勇中将を祀る。牛島司令官は1945年6月19日「…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』と最後の軍命令を下達し23日長勇参謀長と共に摩文仁が丘の司令部壕内で自決した。結果的には、その後ゲリラ戦になりガマ(壕)を追われた多くの住民が犠牲になりました。
第三十二軍司令部壕
黎明の塔近くから海岸に降りる階段の途中左側に第三十二軍司令部壕がある。ここは沖縄守備軍令部最後の場所、牛島満中将と長勇参謀長が自決したとされる壕である。

第三十二軍司令部壕からさらに階段を降りると健児の塔があります。


急な階段が続きます。健児の塔のすぐ近くに駐車場がありますので平和祈念公園駐車場からここの駐車場まで車を移動すれば階段を昇降することはありません。



岩には「小石もて 戦せしと きくにつけ 身につまされて 悲しかりけり」

階段を降りきった所にガマ(壕)があります。沖縄師範健児隊のガマである。「健児」つまり師範学校の生徒(学徒)がこのガマに追いつめられた。軍から解散命令を受け、斬り込みに出撃する者、手榴弾で自決する者、米軍の火炎放射を浴びて焼け死ぬなど多くの犠牲者を出した。岩塊下には広い空間があり壕内には納骨堂が作られている。また壕壁には火炎放射の跡がまだ残っている。私にとってはこれが初めて見るガマであった。壕内には生徒達の恐怖の念が残っているのだろうか、私は何かプレッシャーのような恐さを感じ、すんなりとは中に入れなかった。少し気持ちを落ち着かせると線香を焚いたあとが残る場所が見えた。私はその場所で持参した線香に火を付け、自生している小さな花を摘み、献花した。ペットボトルの水をすこし撒いてから手を合わせ拝んだ。


平和の像

沖縄師範健児之塔の斜め後方に立っているのが「平和の像」である。向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴してるという。


沖縄師範健児之塔  

沖縄師範学校男子部の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑です。鉄血勤皇隊が南部の断崖絶壁に追い詰められ最期を遂げたところで、生徒・職員307名を合祀しています。13~19歳の若さで大人と同じように戦闘に加わりました。この「沖縄師範健児の塔」は、1946年に師範学校の同窓生によって建てられたものです。
ここからは沖縄師範健児之塔周辺の慰霊碑を巡ります。
風部隊の碑

 風部隊は、戦況気象情報、基地通信、整備、燃料補給、整備の任に当たっていたが、昭和19年(1944年)10月10日以降、第32軍の指揮下に入った。  昭和20年4月、米軍の沖縄本島上陸以来、壊滅状態になった軍通信網に代わって大本営及び関係部隊に戦況を報告するなど通信業務に携わったが南部一帯の激戦の過程でその大半は帰らぬ人となった。  中央航空路部沖縄航空路管区、第5野戦航空修理廠、中央航空路本部並びに他航空路管区の戦没者を合祀してある。

独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑

碑文
独立臼砲第1連隊は昭和15年 8月満州公主嶺にて対ソ作戦に備えての特殊兵器を装備した秘密部隊として創設されたものであります昭和17年 9月三ケ中隊からなる独臼1大隊を編成ガタルカナル島攻略戦に出陣、在「ガ島」師団指揮下に入ったが、参戦の機会を逸したまま終戦までラバウル方面の戦備に任じた。一方連隊主力は昭和19年 8月本土防衛の第一線、沖縄作戦に出陣した。又残留部隊は独立臼砲第23大隊を編成、昭和20年4月済州島防衛に赴き此の地で終戦を迎えた。  沖縄決戦に参加した連隊主力は現地入隊兵を併せ第32軍直属球3666部隊となり現地防衛隊、他学徒献身隊の参戦協力を得て、昭和2年 4月 1日米軍上陸を迎撃敢闘3ケ月に及ぶ激戦の末我が臼砲連隊は 6月16日をもって組織的戦闘行動に終止符をうったのでありますこの慰霊碑は独臼第1連隊に関係ある沖縄戦ラバウル他太平洋戦争に従軍し散華した戦友の英霊を合祀し合同慰霊碑として建立しました。尚、この慰霊碑は我が臼砲連隊の秘密兵器98式臼砲実物大原形に基づいて碑石を彫し建立しました。
昭和56年 8月建之                独立臼砲慰霊碑建立委員会

南冥の塔

南冥の塔の手前には説明板によると「沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。  この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。  現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています」 

南冥の塔の横にも壕があります。

壕内部。壁はやはり黒い跡が。

南冥の塔から海岸の方に降りていきますと道の右側の岩も黒くなっています。



ここにも火炎放射器の跡が。

とてもいたたまれなくなり、胸が張り裂けそうになります。ここでも線香とお水を捧げて拝ませて頂きました。

死の井戸 チンガー

摩文仁の丘周辺には井戸が2か所しかない。その一つが摩文仁区民のムラガーのチンガーである。1945年6月になると数万人の日本兵と住民が水を求めてこの井戸に殺到した。そこに米軍による海からの砲撃や機銃掃射があり、多くの犠牲者がでた。当時は井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水を汲んだといわれている。

ここにも線香の跡があったので私も同じところに線香を焚き、自生している花を添えました。なぜ自生している花を献花するかというと、ひとつ上の写真にありますように立派な花束を置いていかれますと、しまいに枯れて紙やプラスチックなどはそのまま残りゴミになります。お水もペットボトルやプラスティックのコップなどもゴミになりますので、気持ち(どうぞお飲み下さい)を込めて地面に撒くようにしました。