2013年3月30日土曜日

場天御嶽(ばてんうたき)東御廻り 拝所4

琉球三山統一を果たした尚巴志(しょうはし)ゆかりの地。伊平屋島から佐敷に移り住んだその祖父・佐銘川大主(さめがわうふぬし)は、この場天御嶽に祀られている

イビ御嶽ほか6つの拝所が点在。東御廻りでこの地を拝するのは、王国と深く結びついた聖地としてはもちろん、先祖が使った御水に感謝するためとも語られている。

御天坐神 
旧場天御嶽からここに移転したものです。


イビ御嶽 
新里部落の守護神が祭られている御嶽です。

伊平屋神 「ヤマトゥバンタ」
 伊平屋への遥拝を行う丘にあった拝所をここに移転したものです。

場天御嶽 
尚巴志の祖父である佐銘川大主の住居跡だった場天御嶽(場天殿)を、ここに移転したものです。



2013年3月28日木曜日

ガラビ壕

ヌヌマチガマの反対側の洞口「ガラビ壕」

ジャングルを少し歩くのですが、足下が荒れていますので気を付けながら歩き進むと洞口が見えてきました。
なにか近寄りがたい威圧感を受けました。

ポンプがありますが動いてはいませんでした。

ガラビ壕はもともと風葬の地で石積みになっている所がお墓でしょうか。現在も多数の遺骨がそのまま安置されているそうです。そのガラビ壕が沖縄戦では野戦病院として使われていたのです。

湧き水が溜まっていて先に進むのは難しいので、この香炉に線香とお祈りを捧げました。この静かで神聖な地が戦争に穢され、現代は平和学習といって多くの人が歩き回り墓の中をのぞかれる。
複雑ではありますが「ここに訪れて、ここであった知る事」が御霊への慰霊なのかもしれません。





2013年3月27日水曜日

ヌヌマチガマ

沖縄本島南部の具志頭村字新城にある自然洞穴で、全長約500メートル、東西にそれぞれ大きな洞口を開き、東側を「ガラビガマ」、西側を「ヌヌマチガマ」と呼んでいる。









地上の壕入口から斜面を降りると広い場所にでた。拝所らしき所がなかったので広場の中央で線香を焚いてお祈りさせていただきました。

閉鎖されるまでの1ヶ月余、地元女性の動員(炊き出しなど)や女子学徒らの不眠不休の勤務で、中部・首里戦線から送られてくる負傷兵の治療が行われた。しかし、人員と薬品の不足で治療と呼ぶにはほど遠かった。負傷兵は最も多い時で1000名を越えたと言われる。

6月、戦線切迫のため第一野戦病院も南部撤退を決め、6月3日、新城分院は閉鎖された。

4日、第一野戦病院は、国吉(現糸満市字国吉)方面の壕に撤退した。その時、女子学徒は解散の命令を言い渡され、その後各自で南部戦場を彷徨することになる。

ガマの内部は東西に全長約500メートルあります。昨年(2012年)ヒマラヤ登山の野口さんらがこのガマで多くのご遺骨を発掘されております。私もできれば内部に入ってみたかったのですが、ここのガマは大変ぬかるんでおり、奥の方は泥水が溜まった状態なので一人で入るのには少し不安を感じ、あきらめました。もし機会があれば、またこのガマに入りたいと思います。




2013年3月24日日曜日

富盛の石彫大獅子

 石獅子は八重瀬町富盛地区の勢理城(ジリグスク)と呼ばれるグスクの中にあります。

「富盛の石彫大獅子」

 このシーサーは、1689年、八重瀬町の富盛集落で相次いだ火事を沈めようと風水師の助言に基づいて建立されました。体長1メートル75センチのシーサーは1つの岩から彫られ、現存するシーサーの中では県内最大最古とされています。県の重要文化財でもあります。 

 昭和20年の6月上旬、退却を続ける日本軍は富盛地区付近に陣地を構え、周辺は激しい地上戦の最前線となりました。姿形は昔のまま毅然とそびえています。

今なお残る弾痕の跡が痛々しいです。



戦前、そして激しい戦渦の中から現在まで、この地域をずっと見守り続けた富盛のシーサー。

歴史の証人はなにも語らず、今もただそこに居るだけですが私達に忘れてはいけない事を教えてくれます。
今ある平和に感謝。


2013年3月22日金曜日

泡瀬の塔

泡瀬の塔(沖縄市)

日露戦争から第2次世界大戦までの戦争及び戦火によって不帰の客となった泡瀬出身の軍人軍属、児童並びに一般住民の御霊を合祀して平成7年8月15日に建立されました。 


ギーザバンタ

陸と海から挟み撃ち

ギーザバンタ。本島南部、喜屋武岬と続くこの一帯は、岩はだの険しい、高さ数十メートルの絶壁が目の前に迫り、雄大なさまを見せつける。大岩がごろごろ海岸線に続いている。昭和20年5月末、浦添・首里の攻防戦で敗れた沖縄守備軍はジリジリと、南部に追いつめられていった。それとともに多くの民間人も逃げ場を求め、南部へ、摩文仁へと放心状態で足を向けていた。その数、およそ兵3万、民間人10万人余といわれる。わずか東西7キロの喜屋武半島にそれらの人々が砂糖に群がるアリのように集まっていた。

陸からは勢いづいた米軍の機銃が、海上には米小型艦がおり、挟み撃ちの中で悲惨な状況が繰り広げられた。摩文仁にある沖縄県立平和祈念資料館を訪ねた。展示されてある民間人の戦争体験記の中にギーザバンタの様子を書いたものがある。「アダンの下にもぐっていたときですね。血やら人の肉やらが飛んできましたよ。―上から降ってきましたよ。何だろうと思った。着ているキモノにくっついたですよ」 大城堅輝館長と資料館裏手で岩はだの岬を見た。数千、数万人の命をのみ込んだ絶壁を見た。鉄血勤皇師範隊として沖縄戦に加わった諸見守康さん(55)=宜野湾小校長=はギーザバンタで捕虜にとられ、実質的な終戦を迎えた。「岩はだで足が痛いんですよ。周りは真っ暗だし、少し歩くと何かにぶつかる。よく見るとそれが死体なんです。1体や2体じゃないですよ。無数に死体がありまして、避けて歩くのに大変なほどの数でした」

海上の米小型艦はスピーカーで何度も投降を呼び掛けていた。「船に乗っている米兵が双眼鏡でこちらを見てるのが分かるほど」の距離だった。銃を持っている日本兵を発見すると「銃を捨てなさい」と呼び掛け、隠れると「あと何分の間に捨てないと撃つぞ」と脅した。銃を捨てると「その調子。ありがとう」と叫んだ、という。最初は恐怖におびえていた民間人も、やがて1人、2人と投降に応じるようになり、がけの片隅には投降した日本兵の武器が山となった。「6月22日だったと思います。私も捕虜になりました。でも半面では安心したような気持ちもありました」と諸見さんは語った。与那嶺盛昭さん(55)=与那原町字与那原=もギーザバンタで忘れ得ぬ辛い思い出を持っている。与那嶺さんは、父や親せきの人ら8人で出身地の大里から玉城、具志頭と戦火を避け、南下、摩文仁へと来た。「あのがけをツルをつたって降りたのはいいですが、途中で艦砲射撃に遭うなど大変でした。その時おじが岩の破片を受け即死しました。カンプーをゆった50代ぐらいのおばさんたち4~5人も死んでました。腕がなかったり、首が切れたりして、何ともいえない光景でした」。

ギーザバンタの下にこんこんとあふれるわき水がある。当時もわき出る水で多くの人の命を救ったわき水だ。「敵に捕まるまいと思い、懸命に逃げたのです。そのうちのどがかわいてきて、見るとわき水があったので、これ幸いとたらふく飲んだのはいいですが、腹がふくらんだら、水が臭いのに気づいたんです」と与那嶺さん。諸見さんも「あのわき水の回りは死体がごろごろしていました。でもみんな飲んだでしょうね」と語る。わき水は今もあふれ出ている。  
(「戦禍を掘る」取材班)  

1984年2月2日 琉球新報掲載から抜粋させていただきました。
※写真はそのわき水ではありません。


2013年3月19日火曜日

第24師団第一野戦病院壕

第24師団第一野戦病院壕は東風平町富盛にある、八重瀬岳中腹にあります。白梅学徒看護隊が動員していたことでも有名な壕で、「上の壕」と「下の壕」の2つの壕があります。



1945年3月24日~1945年6月3日まで病院壕として使用されていましたが、戦況の悪化に伴い解散、そして撤退しました。激しい地上戦の中、傷病兵の看護にあたった証言者の話によると、壕に入りきれないほどの負傷兵が運ばれ、十分な看護の手も及ばず、学徒も24時間勤務していたそうです。壕内では患者のうめき声に満ち、排泄物などの悪臭が漂い、患者の体にはウジも湧いている状況で劣悪で苛酷な環境だったそうです。 

まずは壕に入る前に入り口で手を合わせます。「どうか、安らかに」

採石場をさらに掘り込んだ壕で下の本部壕と同じく竹を組んだ2段ベッドが50〜60床ほど、岩壁に沿って一列に奥へと並んでおり、前線から運び込まれる負傷兵で溢れていた。

手術は連日夕刻から明け方まで軍医、衛生兵、看護婦によって行われた。手足を切断する必要のある患者は上の壕に移され、切り落とされた手足は箱詰めにして砲弾の穴に学徒たちが埋めた。

負傷兵の運搬は主として防衛隊員や義勇隊員だったが、戦線からの負傷兵は東風平郵便局広場に運ばれ、そこから本部壕やヌヌマチガマに運ばれた。

車は下の大通りで止まるので、車から壕までは担架に乗せて運んだが、雨の日は大変だった。最初は昼間も運んでいたが、その後夕方を待って行動するのが日課になっていった。4人で負傷兵を運ぶが弾が飛んでくると、患者はそのまま置いて隠れていた。軽傷者から重傷者までいたが、生き延びそうな負傷兵を運び、そうでない負傷兵はそのまま置き去りにされた。

本部では夕方、遺体を付近の畑に穴を掘り埋める作業が毎日続いた。多い日は40体ぐらい。初めの頃は棺桶に入れて埋めたが。後はそのまま埋めただけではなく、場所がなくなり前に埋めた棺や遺体の上に重ねて土を盛り上げて埋め、しまいには爆弾穴に放り込まれた。

6月3日、分院はそれぞれ閉鎖して本部に合流、高嶺村(現糸満市)国吉に移動することとなった。そして6月4日、学徒隊には解散命令が出された。その時、負傷兵に対する「原隊」復帰の呼びかけが学徒隊最後の任務だった。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」より引用


2013年3月17日日曜日

佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)東御廻り 拝所5

佐敷上グスクは331号線沿いの大きな鳥居から車で入れます。沖縄にも神道の神社はありますが神社以外ので御嶽(うたき)の入り口にも鳥居が立てられています。これは明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果であり、本来のものではありません。沖縄本島では戦後、鳥居が撤去された御嶽も多いそうです。

前の三つの拝所と違い、内地の神社のようです。

神社であればこれが拝殿になるのですが、何もありませんので通過させていただきます。

月代宮(つきしろのみや)。このグスクは琉球を統一して初代の琉球国王となった尚 巴志(しょう はし)とその父、尚 思紹(しょう ししょう)の居城跡とされている。月代宮(つきしろのみや)は尚父子を含む八体を合祀し、明治期に建立された。

月代宮のうしろにひっそりではありますが、何か存在感のあるところがあります。こちらが本来あった拝所ではないでしょうか。どちらとも、しっかり挨拶させていただきました。



2013年3月16日土曜日

クラシンウジョウ

クラシンウジョウ(暗御門)のは尚巴志の三男、具志頭王子の墓だと言われ、具志頭城跡の真下にあります。沖縄戦では米軍の港川上陸に備えて自然洞穴を拡張して構築された陣地壕である。

階段を登れば壕の出入り口があります。

階段の途中には黒く焦げた跡があります。

階段をあがると、いくつかの出入り口があります。

こんな狭い出入り口もあります。

階段をあがって右のほうに歩くと大きな出入り口がありました。今まで入った壕を較べるとかなり人の手が入っているようです。この通路は暗御門の時に作られたものなのでしょうか。


通路の横には部屋も作られていました。ローソク台の跡も見えます。

通路を突き当たるとヒンヤリとした広い空間に出ます。天井もとても高いです。そして右手の方に小さな明かりがもれています。むこうにも出入り口があるようです。


壁や天井の一部は黒や白くなっています。これも焼けた跡なのでしょうか。

内部の高い所に石積みで囲った区画があります。

光の方にいくと香呂があったので、ここでお線香をあげました。

今度は反対方面を歩いていきます。


こちらにも出入り口があります。

出入り口の近くに琉球王国の初代王 尚巴志の三男、具志頭王子と伝わるお墓がありました。ここでもお線香を立てさせていただきました。

お墓の脇には陶器が置かれていました。

一度、出入り口の外にでて海側の岩場に入ると四角い光があります。

銃眼です。


45年3月23日から4月1日にかけて米軍は陽動作戦を展開して港川から上陸することはありませんでした。しかし5月下旬、日本軍の南部撤退に伴い、この壕には高射砲部隊(約300人)が配置され、再び陣地壕として使用されることになりました。


6月4日、米軍は港川を占領し、そこに物資集積所をつくって本格的な攻撃の準備をはじめます。目前の米軍に対して、クラシンウジョウの壕の日本軍部隊は6月9日の夜、洞窟を出て切り込み攻撃をしました。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」より引用