2013年4月26日金曜日

斎場御嶽(せーふぁうたき)東御廻り 拝所7

斎場御嶽は琉球の始祖「アマミキヨ」が造ったとされ、国始めの七御嶽の一つといわれる琉球最高の聖地です。琉球の最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式はこの斎場御嶽で執り行われました。東御廻りの中でもここは世界遺産でもあり、毎日数多くの観光客が訪れています。

砲弾池 (沖縄戦時に米軍の艦砲弾が着弾してできた池)

大庫理(ウフグーイ)
聞得大君の「御新下り」の儀式のおこなわれたところである。

寄満(ユインチ)
寄満とは、王府用語で「台所」を意味しますが、貿易の盛んであった当時の琉球では、世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と解釈されています。

シキヨダユルとアマダユルの壷
 二本の鍾乳石から滴る「聖なる水」を受ける壷がふたつ下におかれています。

 三庫理(サングーイ)
二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分は、それぞれが拝所となっています。また、東側には海の彼方に久高島を望むことができます。

一度でいいから早朝に遥拝してみたいです。

 

2013年4月22日月曜日

遺骨収集 安里

 約2ヶ月ぶりの遺骨収集活動です。2月に行った金光教の遺骨収集ボランティア活動は一年に一回なので次回は来年ということになります。私はあの時のご遺骨(御霊)の声なき声を感じてから、今なお我々の立っている地の下で眠るご遺骨を出して上げたいという気持ちが強くなりました。そして沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅さんに電話で何度もコンタクトさせていただきました。そして本日、那覇で遺骨収集をやることが急遽決まり、参加させていただくことになりました。

今回はガマフヤーに遺骨収集依頼があったそうです。ここに住むおばあさんは毎年、この木のもとで慰霊式を行っているそうです。詳しい事情はわかりませんが今日ここで作業が行われます。写真は、おばあさんが「事故が無いようにと」ウートートー(お祈り)していただいている所です。


おばあさんの話しに基づきおそらくここだろう、という場所を掘り下げていきます。掘りながら地層を分析しています。木の根よりさらに下のでも出てくる砕石やゴミなどが戦後のものらしいのです。また埋葬であれば頭は西向きだから足はこの辺かも、などと話しをされていてとても勉強になります。

 午前中では、ここまで掘り下げましたが出てきませんでした。

午後から再開して、1m50〜60cmくらいの深さまで掘りましたが、結局何も出てきませんでした。井戸の近くなので水が溜まってきます。諸事情で掘れるポイントが限られていたらしく作業はここで終了。掘った穴を皆で埋め戻しました。「申し訳ない」と何度も言うおばあさんに皆は「出てこなかったのは良かったんだよ〜」と優しく答えていました。

2013年4月11日木曜日

テダ御川(てだうっかー)東御廻り 拝所6

テダとは太陽を意味する言葉で、太陽神がここに降臨したと伝えられている。その昔、国王や聞得大君が久高島を参拝するときには、無事に船が航海できるようにと祝女(ノロ)たちがオモロ(奄美・琉球に伝わる古い歌謡)を謡い、航路安全を祈願したのだとか。ここへは知念崎(ちねんさき)の灯台を過ぎ、坂を下っていくと辿り着くが、テダ御川と記された石碑と説明板がなければ、かつては井泉であったことを想像するのはむずかしい。

説明文によれば、昭和8年頃に背後の知名(ちな)グスクから採石したことが原因で、清水が枯れたという。しかし、目の前に真っ青な海が広がり、ほぼ真東の方向に久高島が見えるのは神聖な光景そのもの。東御廻りの聖地として、いまでも人々から崇められている。




2013年4月7日日曜日

南風原文化センター

南風原文化センターでは前記事の「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」をリアルに再現したものが常設展示してあります。実際の壕内でガイドさんにお話を聞いていたので自分が想像した通りでした。

入館料300円を支払い、再現された壕を入ります。

「飯上げ」
食糧を運搬する女学生の姿が見られます。

ガイドさんから聞いた通り、壕の幅・高さはともに1.8m、壁際に幅90cmの簡素な2段ベットが作られていました。



二段ベッドの下段に体験用寝台がありましたので横になってみました。

横になり上段ベッドの板を見るとこのような説明板がありました。その臭いはきっと、この世のものとは思えないくらい酷いものだったのでしょう。それに怪我を負ったり、手や足を切断された兵士はこの暗闇で一日中痛みに堪え、どんな思いで過ごしたのでしょうか。そして学徒隊の方々が不眠不休で兵隊さんの看護、それに命懸けで飲み水や食糧を運んできていただいたのです。

19壕と21壕の分岐の場所が手術場となっています。

入口を振り返ってみますとこのようになっています。

実際にはカーブがつけられ入口は見えません。

どこの病院壕でも聞く話が医薬品不足でろくな治療ができないので手術といっても麻酔なしで処置することしかできなかったそうです。



軍は壕を捨て、撤退するときには自分で歩けない重症患者には青酸カリが配布された。命を助ける病院が軍組織によって命を奪う場にされてしまったと書かれています。

岡さんは青酸カリを飲んでも吐き出して、命からがら逃げる事ができました。

南風原村の戦没者名と日本軍兵士の遺留品。





南風原文化センターの正面横にある強烈な壁画「時の記憶」。よく見ると人に目になっていて涙が流れている。南風原文化センターは南風原・沖縄に関する歴史資料や沖縄戦に関する展示以外にも移民やむかしの暮らし等の展示を行っています。

南風原文化センター
沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武257番地  TEL:098-889-7399 FAX:098-889-0529 
[開館] 午前 9 時~午後 6 時 [休館] 毎週水曜日 ・ 12 月 29 日 ~ 1 月 3 日  




2013年4月5日金曜日

沖縄陸軍病院壕群20号壕

沖縄陸軍病院壕群20号壕の入壕は予約が必要です。南風原町立南風原文化センター(098-889-7399)で予約を入れて、受付で見学料300円を支払いますとガイドさんに案内していただけます。壕内は暗闇なのでヘルメットと懐中電灯を借りて中に入ります。こちらの壕のようにしっかり管理されガイドさんもいるところは少ないですが、やはり説明を受けながら壕に入れるのは、目と耳から同時に情報がはいるのでとても分かりやすく当時の状況が目に浮かびます。

沖縄陸軍病院の説明
いただいたパンフレットから転用させていただきました。

壕入口付近に置かれた医薬品類

このツルハシで70mもある壕を掘った。岩盤は固くて一日にそんなに掘れなかったそうです。相当な人も時間もかかったのでしょう。ここは自然のガマを利用した壕ではなく、完全な人工の壕です。

幅・高さはともに1.8m、壁際に幅90cmの簡素な2段ベットが作られていていたとのことですので、とても狭いです。また、雨水がたまらないように傾斜をつけたり、米軍に見つからないようにカーブさせたり、いろいろな工夫も施されている。

手術場(下のパンフレットを参照)から左手が19号に繋がる通路(落石している)

そして、右手が21号への通路(縦穴がある)

壕内の説明
いただいたパンフレットから転用させていただきました。


沖縄陸軍病院壕群20号壕出口。ガイドさんの説明を受けながら約20分で外に出ました。

ガイドさんが「せっかく来たのだから、飯あげの道を歩いてください」と最後にここまで案内していただきました。陸軍病院壕での看護に動員された女学生たちは、アメリカ軍の砲弾をかいくぐって、「飯あげの道」を通って近くの集落で作られた食事や水を壕に運びました。

女学生たちは飯の入った桶に棒を通して二人でかついで歩いたそうです。壕内での食事はこの飯で作ったおにぎり一個が一日分だったそうです。

「飯あげの道」の途中に南風原陸軍病院壕と悲風の丘がありました。