2013年5月22日水曜日

知念グスク(ちねんぐすく)東御廻り 拝所8

知念グスクは、南城市知念にあるお城跡で時代の違う新城(ミーグスク)と古城(クーグスク)の二つの郭が存在するのが大きな特徴となっています。

表門・裏門共に沖縄のグスクでよく見られるアーチ型の門になっていて、表門から中へはいると、石積の城壁に囲まれた空間が広がっています。





知念グスクは中世から近代までの複雑な建築物が城内外で見られることが特徴で、最近の調査では、13〜15世紀を中心とした土器・輸入陶磁器・銭貨・金属製品・骨類などの遺物が出土した。




2013年5月11日土曜日

遺骨収集 大里

遠くに見えるのが与座岳です。沖縄戦においては最後の防御線であり激戦地でもありました。水之江様のサイト「沖縄戦史」に「与座地区の戦闘」が克明に記録されています。

今回は与座岳の東側にある大里地区が現場になります。

県道から一歩中に入れば鬱蒼としたジャングルです。この日はガマフヤー代表と二人での作業になりました。

ここには日本軍の陣地壕がありましたが米軍の爆撃により壕の入口は崩れ落ち、わずかに開いた穴から腹這いになるような形で壕の中に入りました。入口付近にはハブがいることが多いそうです。

内部は常に湿っていて水たまりもある。天井は低く足下は粘土質の土なので非常に歩きにくい。石が一か所に集められている。以前に遺骨収集が入った跡だそうです。

遺留品はそのまま置いてある。

壕内部はコの字形になっておりもう一方の出入り口があったであろう場所は崩れて埋まっていた。内部から掘り進めるより外から掘った方がいいということです。

ここが外側です。すでにご遺骨や遺留品などが発掘されていました。この日は私がこの穴を掘りました。

粉々になったご遺骨。

米軍の銃弾があるということは、ここまで米軍が入ってきたという証拠です。

日本軍の装備金具など。

さきほどの陥没壕の入口を掘っていきますと瓶がでてきました。日本軍の薬瓶だそうです。

黒く焦げた土の層があり、そこを掘っていくと金属片が出てきました。

遺骨収集はとにかく範囲が広いので、まずは壕などの確率の高い所から掘っているそうです。一人が一日に掘れる量は少ないです。しかも丁寧に掘っていたらなおさらです。それでもコツコツやるしかないのでしょう。この下に待っている人がいるかもしれないのですから。


2013年5月5日日曜日

嘉数高台公園

嘉数高地は第六十二師団、約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦場自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため十六日間も一進一退の死闘が展開されたが遂に日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられた程に両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地である。勿論、沖縄に住む民間人も、この戦いの中で日本軍に避難を許されずに巻き添えになり、多くの方々が死んでいきました。

今は公園としてきれいに整備されていて家族連れや観光客などが公園に訪れている。

日本軍の陣地壕がまだ残されている。




両軍の損害
日本軍:64,000人 アメリカ軍:24,000人(12,000とも) いずれも戦死傷者。

沖縄戦で亡くなった朝鮮半島出身者386人を祀った“青丘之塔”

京都の塔(京都府)

嘉数に投入された第62師団独立混成旅団には京都出身兵が多く(約3500名)、そのほとんどが故郷を見ずに嘉数にて戦死しているため、摩文仁ではなく嘉数に“京都の塔”が建てられている。



島根の兵奮戦之地

沖縄式の拝所(ウガンジョ)

嘉数戦で使用されたトーチカが今も保存されている。

小銃弾のみで破壊されたトーチカが、往時の戦いの激しさを物語っている。

公園内には世界平和を願う地球儀をイメージした展望台があります。

 この展望台から普天間基地を離発着する米軍機を遠望できる。


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